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[室町紀行 第一話] 蕎麦打ちの話 | 八十二銀行 東京事務所 宮原 博之 氏

記念すべき第一回は、全国の地方銀行が参加する地方銀行フードセレクションでも 推進役としてご活躍いただいている八十二銀行から
東京事務所の宮原所長にご登壇いただきます。

八十二銀行 東京事務所 
宮原 博之 氏
1986年4月 八十二銀行上田支店入行 以降、営業店5店舗、本部2部署を経て 2008年6月 飯田支店副支店長 2010年6月 東京事務所長(現職)

 私は、5年程前から、毎年銀行に提出する身上書「趣味」の欄に「蕎麦打ち」と記入しています。きっかけは、平成17年3月、職場のレクリエーションで「蕎麦打ち教室」に参加したことです。講師の手助けにより、それなりに打てたので、気を良くして早速、地元の商店で蕎麦粉とつなぎ(小麦粉)を購入し、道具は自宅にある物を使い、教室で習ったことを思い出しながら打ってみました。

 しかしながら、結果は悲惨で、麺がボソボソになり、食した家族から「お父さん。何これ?蕎麦じゃない。箸よりスプーンで食べなきゃダメ」などと散々に言われ、「よ~し。蕎麦打ち名人になってやる!」と生来の負けん気に火がつきました。


名人への道~修行の日々~

 まず、ネット通販で格安な蕎麦打ち道具一式を購入し、打ち方は高橋邦弘氏(日本を代表する蕎麦打ち名人)のDVDを何十回も繰返し視聴して覚え、それから5年間程は、休日の午前中はほぼ毎週、蕎麦を打ちました。家族などからの評価も徐々に向上してきた事も励みになりました。道具も、こね鉢、麺棒(のし棒1、巻き棒2)、のし板、包丁、まな板などを順次買い換え、結局半年くらいで当初の道具はすべてお蔵入りとなりました。

 また、ネットで「板倉庵」という道具・蕎麦打ち・茹で方など、全般に亘り詳細に解説されたホームページを見つけました。製作者の板倉敏和氏は、その後、長野県副知事に就任され(18年9月~22年8月)、蕎麦振興にもご尽力され大いに貢献されました。

蕎麦打ちで広がる信州人の絆

 蕎麦打ちを通じた出会いもありました。中野四郎さんと仁科保さんです。

 中野さんは十数年前に、IT企業を脱サラし、家族で長野駅東口に蕎麦処「奈加乃」を経営しています。蕎麦打ちを始めた頃、長野市に単身赴任していて、何回か訪ねるうちに親しくなり、何度か「奈加乃」で蕎麦打ちもさせて貰いました。

 「飯伊地区そば愛好会連合会」(飯田そば会)代表の仁科さんとは、前任の飯田市に住んでいた時に、蕎麦打ち講習会で面識を頂き、全麺協(全国麺類文化地域間交流推進協議会)主催の「素人そば打ち段位認定会」へエントリーする事を勧めて頂きました。お陰様で、いずれも飯田で初年度初段位、翌年に2段位の認定を頂く事が出来ました。認定会は制限時間40分で、初段は700g、2段は1,000gの蕎麦粉とつなぎを使用し、準備から水回し、こね、のし、切り、片付けまでの過程や出来栄えなどが審査対象で、一定の点数を獲得できれば合格です。ちなみに前述の板倉前副知事は全国で僅かしかいない5段位です。

 最後に、私の出身地、上田市の蕎麦にまつわるお話を一つ紹介します。真田昌幸(幸村の父)・信之(同兄)公の後に、信州上田藩を治めた仙石政明公は宝永3年(1706年)に出石(いずし)藩(現兵庫県豊岡市出石町)への国替の時に上田の蕎麦職人を連れて行き、それが今の「出石皿そば」の発祥と言われています。

 私は、まだ修行の身ですが、信州人として、いずれは蕎麦の地域振興に一役買いたいなどと、密かな思いを抱いています・・・。

蕎麦ができるまで


1:蕎麦打ちを始めます

2:水回しをして、こねます

3:手で「丸のし」をします

4:のし棒で長方形に延ばします

5:麺全体を確認しています

6:麺の厚みをチェックしています

71:麺を開いてたたみます

8:蕎麦切りです

9:切り揃った蕎麦です

10:茹でてざるに盛ります(完成です)

(2012/2/29 掲載)